比較考量の問題である
物事の是非を考える際に、白黒のはっきりとした境目がなく、状況に応じてケースバイケース、ということはよくあることだ。
個人的な体験談で恐縮だが、学生時代バイト先の書店でその会社の社員さんと議論になったことがある。仕事のやり方について、ではなく「多数決の是非について」だ。飲み会で終電を逃して朝方4時頃だった気がする。学生だった私は構わないが、翌日出社の社員さんは今思えばよくもこんな学生のいい加減な日常に付き合ってくださったものだ。何の議論だったか思い出せないが、私が物事を判断するときに結局は多数決で決めるしかないじゃないかと言ったのに対して
「じゃあ、一人でも賛成の人が多ければ、反対の人はどうなっても構わない?」
そう、社員さんはとても静かに優しげな目で聞いてきた。私はそこから居酒屋を出るまで、周りの雰囲気など一切忖度せず(そんな余裕もなく)ずっと座敷の隅でそれについて考え込んでいた。当時話題だった小林よしのりのゴーマニズム宣言や大学入学当初に聞きかじった程度の論調で、意見といえば筋肉質で攻撃的な物言いをしていた私を皮肉るでも対抗するでもなく、静かに見つめてくる議論の仕方を当時の私は知らずに大きな衝撃を受けた。いや、これは別に議論の仕方、戦術などの話ではなく、本当に真っ直ぐな優しい方だったのだと思う。それから数年後、その社員さんは会社を辞めて北京大学へ留学したと聞いた。
比較考量の問題である―
何の因果か、最近この言葉にぶつかることが多い。
随分と久しぶりに大学時代のことを思い出したのも、そういえばこれも比較考量の問題だと思ったからである。
最近その他同じような話だなと思ったことは以下2点。
1つ目は、全国調査業協会連合会の設立当初の会報誌にある有本憲二氏の原稿。
2つ目は、8月文藝春秋のロシアはいかにして戦争を終わらせるか、という記事。
1つ目は、調査といえば「プライバシーの侵害にあたる」と言われるが、それは「比較考量の問題である」と説いている。
つまり目的があって調べる場合には、プライバシーの侵害のほうが重いのか、調べるほうの目的のほうが重いのか、という比較考量の問題をはっきりさせたなら、調査業に関しては決してプライバシーの侵害とはいえない、という考えです。(全調協会報NO,5)
2つ目は、ロシアとウクライナの戦争に関して「ウクライナの完全属国化」が現実的ではなくなったロシアが、NATOの東方拡大という「将来の危険」のほうに重きを置くのか、戦争を続ける「現在の犠牲」の方を重大なことととるのかという比較考量の問題であると読める。
その戦争終結のかたちは、「紛争原因の根本的解決」か、「妥協的和平」かのどちらかの方向に転ぶ。それを決めるのは、優勢勢力側が「将来の危険」と「現在の犠牲」のバランスをどう見るかだ。(文藝春秋8月号)
※参考 https://bungeishunju.com/n/n1fd542f8ff32
いろんなことが白黒はっきりつかずに、物事のバランスの中で揺れている。揺れたままにしていたことがある日問題となり、なんとかその中で決着をつけようとしたり、出口を見つけようともがく。
そこで導き出される「答え」は往々にして正否の判断ではなく、妥協案であるが、それを認めていくからこそ色々な人々が生きていけるし、バランスの取れる世の中になるのではないだろうかと思う。
多数決で多いほうが「正しい」少ないほうが「間違っている」というわけではない。少ない方を無視しますと言っているわけではなく、今回は多い方の意見で進めましょうということだが、一方をとることで、一方が殲滅されてしまうような選択肢しかない二者択一は、選択肢の置き方を変える必要があると思う。
包丁で人を殺したからといって、包丁は人を殺す可能性を秘めたものだから使用を禁止する、といえばだれでも暴論だと頷くのに、調査は差別につながる可能性があるからしないように、という暴論はまかり通るのはおかしくはないか。
何事も比較衡量の問題である。
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