部落問題と調査業
部落問題は調査業の歴史を語る上で決して避けては通れないものである。
「歴史」などと言っているが、1990年~2000年台が最もこの部落問題に絡む調査業のあり方が問われた時期だ。まだわずか20~30年前のことであるから、今の50~80歳代の方であれば記憶に残っていることと思う。
今月、文藝春秋8月特別号には以下のような記事があった。
―― 部落解放同盟の研究4 野中広務との因縁 ――
今年、全国水平社創立100周年ということもあり、文藝春秋は昨年12月から何度かに分けて「部落解放同盟」の設立から、様々な事件や訴訟などを連載している。その中の今回第4回。国家公安委員会委員長、内閣官房長官、自由民主党幹事長などを歴任した野中広務が京都の被差別部落出身であるというのは一部の人には既に知られたことであり、本人も公表していたことである。その野中広務に対して2001年、総裁選に立候補した麻生太郎が派閥の会合で「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と差別発言を口にしたという。当然野中はその発言に対して即座に怒りを表明した―― かと思いきや、それは自身が政界引退を表明した2年後の2003年、最後の自民党総務会でのことだった。
野中は、議会で自身最後の発言だ、とことわった上で、次期総務大臣就任予定の麻生に対して以下のように発言した。「あなたは『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃったそうではないか。~中略~ これから大臣のポストについていく人がこんなことで人権啓発なんてできようはずがない――」
場の空気は一気に凍りつき、当の麻生は顔を真っ赤にして無言で俯いたままだったという。
記事の内容は、なぜそのような発言があった直後に麻生を糾弾しなかったのか、部落解放同盟は当時どうなっていたのか、など詳細に綴られているため詳しくは紙面をご覧頂きたい。しかし私がこの記事の中で最も印象深かったのが、上記出来事が起こるもっと以前の解放同盟委員長上杉佐一郎と野中広務の会談である。当時、時限立法として始まった同和対策事業がその終わりを迎えようとしていた事に対し、上杉は野中に対して延期を要求した。その時、野中は上杉に対し以下のように言ったという。
「上杉さん、それよりは税の話を片付けましょう」
延長の問題を言うのであれば、それ以前に、不公正な特別待遇を是正しなければ世間は納得しないと思ったがための発言であったとのこと。(【老兵は死なず 野中広務 全回顧録】より)
部落解放同盟の運動は、生活環境、教育など様々な面で最下級の状況を強いられ、世間的にも差別の横行する状況に対し、国や市町村に対して訴えを起こし、様々な改善要求を行ってきた。その結果として、国は時限立法として前出の同和対策事業を行うことを決定したが、その中で解放同盟と関連団体との癒着、控除税などの特別扱いなどが起こり、差別的立場を利用した「同和利権」という別の問題を発生させていた。
「私も部落に生まれた一人なのであります」
と、1982年の全国水平社創立60周年記念集会にて、当時京都府副知事だった野中が発言したと紙面にはあるが、当事者である自身の発言が、解放同盟側の主張を代弁するのではなく、当の委員長に対し、世間の目を知り世論が味方する形でなければ本来の目的である差別のない世の中の実現ができるわけがないと主張したのには深く納得させられる物がある。税の問題を何よりも先に発言する。きっとその姿勢は野中氏の政治に対する姿勢にも表れていたことと思う。
調査の業界に関して言えば、同和対策事業が開始されまだ序盤の昭和50年に、部落地名総鑑事件が起きた。それをきかっけに調査業に対する様々な規制法ができ、その存在意義を厳しく問われる中で、業界内でも自主規制・教育活動・地位向上を目指し、様々な協会が設立されていく。ただその過程で業界内での利権争いや、補助金を巡る不正会計、協会の分裂・乗っ取りなど、「お家騒動」の様相を呈し崩れていく。業界団体も、組合も、協会も、対世間に対してまとまり行動するための集まりであったはずである。
部落解放同盟内の意見よりも先に、世間をいかに納得させるかをまず考えた野中広務の発言、そしてそれを聞き、最もであると答えた上杉の会談が、心に残った。
昭和54年創業 調査専門機関 ㈱企業サービス