社会の中の’ねずみ男’問題
ゲゲゲの鬼太郎に出てくるねずみ男をご存知だろうか。
鬼太郎の仲間のはずなのに、ちょっとした儲け話や耳障りのいい話にフラフラと揺れて仲間を裏切るが、結局うまくいかずに最後には鬼太郎やねこ娘にとっちめられて元に戻ってくるというパターンの、あの男である。
長年のお付き合いのクライアントとの打ち合わせの中で最近、このねずみ男の話になった。
私「〇〇さん、最近どうされているんですか?」※〇〇さんは長年弊社の窓口担当をしてくださった50代男性。
クライアント「ああ、ちょっと地方に行ってもらってる。」
私「え!、東京長かったのに、また突然ですね。」
クライアント「まあ、一つの所に長くいると色々悪さも考えてしまうからな。ベテランと言われるのも問題だわ。」
私「そうなんですね・・・。では新天地で一からですか。」
クライアント「でもなあ、あいつはねずみ男みたいなとこあるからな。あっちでも何かやりよるんじゃないかと気が気でないわ。」
とまあ、そんな感じで登場したわけである。
この文脈からもわかるように、ねずみ男というのは、味方なのか敵なのかよくわからない存在という感じで信頼できない人という意味になる。しかしそんな男なら切ってしまえばいいと思うのだが、なんだかんだ言いながらその人とは飲みに行ったりすることも含め、長く付き合い続けているのである。
これは一旦雇用した人間を簡単に解雇はできない、というようなよくある法律の話ではない。そこには、そこはかとなく根底に流れる愛情があるように感じる。愛情、というとちょっと格好をつけすぎかもしれない。腐れ縁、しがらみ、なんだかんだで付き合っていかなければならない人・・・そんなニュアンスだろうか。このタイプの人は、昔であればどこかしらに一人はいた存在であったように思う。
ゲゲゲの鬼太郎というちょっと古いアニメのキャラクター構成は、まさにそんな世の中の人間組織を見事に反映させている。
そういえば最近、この手の話はあまり聞かなくなったことに気づいた。
昔、社内の人事絡みでの調査依頼といえば、ねずみ男タイプに関する依頼はちょくちょくあったものがここ最近はとんとお聞きしない。ねずみ男タイプ世の中から減ってきているのかというとそうでもない気がする。では何が違うのかというと、組織内ねずみ男は相変わらず存在するのだが、それを諌めつつも結局は仲間に戻す鬼太郎やねこ娘、一反もめんや塗り壁がいないのである。会社でいえば上司にあたる存在になろうか。そういう上司が存在しない。
アニメでも正悪の判別がはっきりつかないものは多いが、その裏にはかっこいいストーリーがあったりして、決してねずみ男タイプではない。特に信念やかっこいい過去もないが欲にかまけてフラフラするというどうしようもないキャラクターがあいも変わらず主人公周辺をウロウロするという話(こう書くとどうしようもないな・・・)は見かけない。そんなもの、人気も出ないからだろう。
だが、人間社会は結局そんなものだと思う。悪いことをするのに、かっこいい過去やそれを正当化するべき理由などそうそうない。そして、そういう人もいるだろうと内包する組織の幅がなくなっていっている気がする。LGBTだ、多様化だ、と叫ぶ割には。
無くなっていっていいじゃないか。ねずみ男なんて組織にとって悪でしかなかろう。
―― それもそうだな。ではゲゲゲの鬼太郎にねずみ男がいなくなった場合、何がどう変わるか。まず、事件は起こらない(ねずみ男が持ち込んでくる厄介事やトラブルの多さよ!)。そのため、目玉おやじが人生教訓をもとに知恵を絞ることもない。ねこ娘が猫の本能を発揮して、ねずみ男を懲らしめることもなくなる。一反もめんや塗り壁に関してはもはや、その身体能力を使った戦いがなくなるので、その他の生きがいをみつけるため、壁は灰色よりも見た目楽しくなるようにカラフルにしてみたり、一反もめんはひらひらとしたその身体能力を活かして、リボン体操のような芸を披露するなど宗旨変えを行うかもしれない。
変わったなら変わったなりの世の中で生きていくものだが、これまでの人生訓が不要となった老人、牙を抜かれた猫、持って生まれた役割を果たせない壁や反物。
・・・なんだかつまらなそうに見えるのは、ないものねだりだろうか。
人事調査専門機関 株式会社企業サービス