静かな退職?!
「静かな退職」という言葉が流行っているということで、弊社営業歴ウン十年の先輩(御年65歳)に知ってますか?と聞いてみた。
先輩「なんかな・・・そやな。退職金やとか、残業代やとかうるさく言わずにすっといなくなる人のことか?」
――確かに。そんなイメージありますよね。しかし本当の意味は「退職したかのように、もしくは心はすでに退職して、言われたことのみ淡々とこなす人のこと。」だそうです。
先輩「そんなん、退職やないやないか!ずるいやないか!」
――ずるい!?
先輩「そりゃそやろ。それで会社から給与もらっとるんやないか!じゃあ退職じゃない。在職や!静かな在職や!」
――おっしゃる通りで。
一本取られた!みたいなやり取りになったが、まさに言い得て妙だなと思った。
「ずるい」という感覚。退職なんて言いながら、退職せず、お金ももらってる。ずっこいなあ。。。
今の若者は、という世代論で語ったり、夢を見られなくなった時代背景等と結びつけて「静かな退職」ということを語る論調が多いようだが、こういう話は毎回あぶくのように浮き上がっては消えていく。語感が「静かなるドン」や「静かな湖畔」とか、かっこ良い感じもするため、この言葉を考えた人はセンスがあるのかもしれないが、肯定するようななにものも、同情するようなものも、その中にはない。そしてわざわざ新しいネーミングなどつけなくても、昔から感情は横においておいて仕事する人は山ほどいたし今もいる。やりたい仕事じゃないと言いながら、子どももまだ小さいし学費もかかるし、ここでやるしかないねん、という人。この会社じゃ、〇〇大学出てないと出世出来ない、と新入社員に知ったかぶりで話す古株・・・
今の世の中、「出世してや!地域でお母ちゃん、息子のこと自慢したいねん!」とプレッシャーがかかっている学生や「資格を取って、給与のいいところに転職繰り返して私を楽させてね!」というパートナーがいるという人のほうが少ないだろう。誰も否定していないのに、なぜわざわざ「静かな退職」などとネーミングしてその存在をアピールするのか。そこには「否定していない」ではなく「肯定してほしい」という気持ちが強いのではと感じる。
悲しみも一種の快楽である――
と言ったのは誰だったか。
「静かな退職」の語感にはそんな自尊心と自慰行為が混ざったようなものが見え隠れするように感じる。人はそれぞれ個性を尊重される時代。それが仮に「自分が肯定されて大事にされること」だとすると、当然別の考え方の人も肯定して大事にするのがルールだ。その人が仕事は情熱もってやるんだ!という人であればそれを肯定してあげねばならない。心の中で何を思おうとも勝手だが、少なくとも会社という誰かが情熱持って運営しなければ潰れる集団のなかにいて、そこで給与をもらっているのであれば、あなたも支えている一員なのだ。「静かな退職」ではなく「静かな在職」であると自らを肯定し、やるべきことをやるのみである。