誕生日はだれのもの?
今朝友人に”お誕生日おめでとう!”とラインを送ったら、自分の誕生日の認識がどんどんなくなっていくわ、と返信があった。乳幼児と幼稚園の子どもがいる彼女は、2人の子育てと仕事とそれに付随する何やかやで、自分の誕生日の比重は軽すぎて、もはや無重力に近いらしい。
昔、人生の主役が自分であることが至極当然であった時代、誕生日は最も大きなイベントの一つであったのに。人生の主役が自分でなくなってはや15年以上経つという彼女に、お誕生日おめでとう、と声をかけることは手放しに喜ばしいことでもなかったかも知れない。人生が未だ自分の手中にある私にとって、取り残されたような、未だいい年をして子どものようなことをやっている気がして、なんだか急に気まずくなった。
人生の主人公が、仮に子どもに移る時期があるとして、子どもが成人して巣立つとまた人生の主人公は自分に戻ってくるのだろうか。
しばらく前に夫のことで相談にきた女性は、自ら会社を経営し、社会的地位も財産もある上に十人並みの容姿をもつ綺麗な人であった。すでに子どもは手を離れ、夫と二人暮らし。その夫の行動調査をしてほしいというもの。要は浮気調査である。夫も同じく経営者か、幹部クラスかと思いきや、一般企業につとめるサラリーマン。またその写真を見て少なからず驚いた。容姿は目立たず人混みに入るとすぐわからなくなる身長だが、ベルトの上にのっかったお腹は人が横に並んでもちゃんと見えるくらいの主張はあり、頭頂部はしっかり光を反射している。お世辞にもかっこいいとは言えないし、優しそうという感じでも、変化球を投げて個性的、とも言えない。
報告書内で不実な行動を繰り返す男を見ながら「なんでこんな人に拘るねん・・・」と呟いた私に、ベテラン調査員が一言、
「私のモン、やからやろ」
「え?どういうことですか?」
「だから、相手が醜男でも実利なくてもいらんもんでも、それは私のモンやねんから勝手に手ぇ出すなってことやろ」
ちょっと色々と余計な言葉が多かった気もするが、要はそういうことかと納得した。
自分の人生だと思ったり、人に握られていると思ったり。取り戻したいと思っても、その舵が知らず知らずのうちに自分でもコントロールできない何者かに握られてしまっていたり。
人生の主人公はステージによって変わることがあろうが、人生の舵取りはあくまで自分が握っているのだと忘れずにいたいと思う今日このごろ。